チャーリーさんの著書『ウェブ社会のゆくえ』の書評会に行ってみた #kansai_ct #GACCOH

 

ウェブ社会のゆくえ―<多孔化>した現実のなかで (NHKブックス No.1207)

ウェブ社会のゆくえ―<多孔化>した現実のなかで (NHKブックス No.1207)

 

 

えーと、学生時代の関わりも入れると、20数年にわたってかかわっております(といっても入会しているだけですが)、日本○○教育学会を、校務以外の理由で行かずに、大阪の難波の近くにあります、まちライブラリー@大阪府立大学に行ってまいりました。

 

 

 

 

何があったかといいますと、TBSラジオ文化系トークラジオlifeのメインパーソナリティ、チャーリーさんこと社会学者(理論社会学ということでいいのでしょうか)の鈴木謙介さんの書評会が開催されたのでした。主催は、東浩紀さんでおなじみゲンロン友の会の関西方面での方々を母体にした関西クラスタ( @kansai_ct )さんと、京都でフリースペース的にいろいろな面白そうな勉強会などを企画もされているGACCOH( @GACCOH )さんの共同開催のようです。

 

 

会場もなかなか素敵なとこでしたし、0から始めるライブラリーということで、イベントなど行う際には何か参加者がオススメの一冊を置いて行ってそれで会場の書棚がシェアされていくという、ブックシェアカフェ的なことを大学の図書館が行っているっていうのも興味深かったです。

 

 

会場には80名ぐらいかしら…けっこういらしていて、テーブルが10ほど各テーブルにチャーリーさんとやり取りされている研究者の方と思われる方とかlifeのパーソナリティーの方とか、私のテーブルには主催者の方がいらして、中でもその方の付箋の張り方が半端なく、まるでブラシの様になっていたのをどうして写真にとらなかったのか今後悔しています。自己紹介と本の感想、疑問点などを確認して最後、それぞれのテーブルの意見を発表するなど(そういえば、D大学のSさんが同じテーブルでしたが、後で調べると、京大でお世話になった研究かご出身の方だったんですなぁ…もうちょっといろいろとお話しとくんだった…)。

 

 

30分弱のテーブルごとの交流会が終わると、休憩をはさんで、チャーリーさん、高原基彰さん、辻大介さん、永田夏来さん、千葉雅也さん、西森路代さん、のパネリストに斎藤哲也さんを司会とするトークセッション。収録もされてたようなんで、ぜひ聞いてみたいところですね。

 

 

 

はじまる前、会場の受付をされていた和装の御綺麗なご婦人が「(パネリストになるであろう)心当たりの学者様の方々!」とおっしゃってたのが何とも、アットホームさというか、「現場の雰囲気」を象徴していた発言のように記憶に残っておりますなぁ。

 

だいたい本を、しかも単著で出して、ほっとしているところで、日常交流があるとはいえ、色々な人から良くも悪くもその講評を貰うというというのは、本当にある種のテンションが必要なんでしょうが、そこはそれ、本質的な質問もありつつそれを受け流したり、正面突破しようと試みるチャーリーさんの応答するところなど、参加者も同じ場で、面白さとともに知的緊張を楽しめたのではないでしょうか。

 

 

さてチャーリーさんの本に関して書評というか感想等をちと書いておきますか。

 

 

 

こちらの本は、二部構成になっており、ざっくりといってしまうと、『カーニヴァル化する社会』の中でもふれられていた、デビット・ライアンの監視社会が踏襲されています。管理社会というと、一部の権力者だけがそれ以外を管理するイメージを持ってしまいそうですが、この社会像ではそうではなく、情報機器の発達によって様々な人々がデーターを使ってモニタリングを行うような社会、しかももちろんでは権力構造が解体されたフラットな社会というわけでもなく、近代的とされる権力装置も残っている社会、そういった現代の社会状況がひとまず確認されていて、この本ではさらに、「多孔化」ということにふれられています。

 

 

「多孔化」とは何かといえば、様々なリアルな空間についての人々の認識の中に、SNSやウェブのデーターベース的なところからモニタリングされた結果、意味づけが上書きされていき、空間の受け止め方が近年大きく変化した状況のことをさしていると感じました。様々な意味の空間に穴が開き様々な情報が入り込んでくる、そういったイメージでしょうか。

 

 

確かに難しい話かと思うのですが、これ、こういったことでいいとすれば私はかなり日常的に実感がありまして、私と同じで教鞭をとる方もあるかと思いますが、教室空間の中を思い出してほしんですね。特に高等教育だと、大教室での講義を思い出してほしいのですが、かつて、私語とかなされていたものが、今は授業中に極端なことをいえばラインのグループでやり取りが可能です。もちろん、教室空間の権威性というものは時代によって変化するんですが、そこにSNSなどのツールが入り込んで、意味空間が変容している、そこの現代性をとらえたという風に理解していいのかななどと思いました。

 

このような、監視社会と空間の多孔化に関する現状認識と思われるようなところが前半部分、3章まで続く第一部を構成し、第二部では、その多孔化をふまえた上での、現代での共同性を巡る可能性の議論を進められている、そういうように感じました。特にコンテンツツーリズムなどある種の多孔化を前提としたうえで地域でとられるる活性化策としての観光戦略などに言及した第5章、そして、つづく6章では、原爆の死者への鎮魂の空間の形成とそのメディアでの伝搬がどのように変化していったか、あるいは阪神大震災での記憶、特に悲劇の記憶に対してのある種の共同化の論理を多孔化される現代社会でどのように構想するか、そういった問題意識を感じました。タイムスケールや、共同化の位相が5章と6章とで、ある種の断層があるように私は感じましたが、それにしても現代社会で必要な議論を吟味してくれている、そう感じました。

 

 

しかも、研究上の論文でもなく、専門書でもなく、かつ一般書とも言い難い、おそらくは現代の問題状況を、チャーリーさんが理論家として、概念として封じ込めた、そういった難しい課題に応えようとした本のようにも感じました。

 

そういえば、最初の各テーブルからの質疑のところでも、多孔化についての質問や、一部と二部の接続に関しての質問があったようですが、私もほぼ同じようなことを感じていました。

 

トークセッションでは、フロアからの応答の時間もあったし、会の終了後の懇親会でお話をすることもできたのですが、四国に帰る便のために19時に出なければならなかったこともあり、そのあたりを著者に伺うことはできなかったし、研究を業とするものとして、すべての質問は自分の研究に跳ね返ってくるという意識もあるせいか、その場でお話を伺うということもあえてせず帰ってまいりました。

 

 

おそらく私の聞きたかったことは、以下のことですが、先ほどものべたように、これは自分で明らかにしなければならないことという意味で、他人任せにするという気持ちはありません。

 

 

それと結局は質問はできませんでしたが仮にそれを行う場合、チャーリーさんは理論家ですから、そこをふまえて聞きたいなと思いました。まずチャーリーさんが説明で構成されている概念の妥当範囲についてというあたりのことをふまえての質問ということになるでしょうか。もしくは、理論を構築する前提となる現状認識と、そのうえでとりだされた普遍性の妥当範囲の確認について。

 

 

具体的に行きますと、やはり、5章と6章の問題圏についてです。チャーリーさんは、問と対象ということで、各章によって対象を変えて、その問の問題圏にアプローチしていったとご自身でお話していましたが、地域のことをべたべたと調査してきたものにとって思ったのが、現状認識は非常に共感しつつも、今、地域の観光が抱える問題状況について私なりに体感していることを重ね合わせると、「こういう場合にはこう考える」というチャーリーさんの返答をお聴きしたかったかなと。

 

例えば、5章に即して言うと、多孔化した意味空間の形成をある種戦略的に意図した観光戦略が、地域の人々を(もちろん限界はありながらも)束ねる積極的な要素にもチャーリーさんは言及しているようにも思えるのですが、例えば、情報技術としてのARだとか、プロジェクションマッピングだとかの先行事例が地域に伝播する際に、その地域の行政や、クリエーターや、そういったイベントに関わる市民というか人的資源などなど、その人々の規定する文化資源的な力量の様なものがあるような気がしていて、そういう基盤がない所では、コンテンツ0の状況で技術的なARとかSNS活用とかによって何かを打開する、コンテンツなきコンテンツツーリズムのコミュニティーを無理やりにでも形成するしかない、そういったように見える地域もあるような気がしています。つまり旧来のお祭り自治会とか産業団体とかそういった人を束ねてきた組織が崩壊しきったような(あるいはそうなりつつある)地域では、多孔化自体を戦略的にとらえようにもその捉える側の人材不足が否めない、そういった現状があるのではないか、そう思っています。

 

 

こういった地域の人材の文化的共通項が一見分断されているかのような地域において、多孔化ということをふまえた上で、なにか共同的なことをとらえるために、チャーリーさんが考えていることはあるのか、つまりは、日本のど田舎での多孔化に伴う共同性の可能性についてはどう考えるのか、そのあたりは自問しつつ自分も考えていきたいかと。

 

 

それと、6章と5章の断層についてですが、これは私の勘違いで、チャーリーさんの本の、つまり概念の断層ではなく、私が見てきた地域社会の中で、6章でふれられてきたようなある種身体化を含めたタイムスケールの長い記憶の共同化の位相と、5章でふれられている現代の地域経営上の共同化の層と、この両面がかなりちぐはぐになってきているという、そういった体験的な感覚を私が持っているので、それで特にチャーリーさんの本でもその点が気になったのかもしれません。

 

いずれにせよ、これらの質問は、会場での辻先生とか、高原先生も触れていたところでしたし、自分でももっと考えてみようと思います。

 

 

交流あり、学会的な書評セッションあり、とにかく、この会自体が多孔化した状況を踏まえ、アカデミズム自身が今後ある意味外向きに変容しよとしている、そういった会であって、何だかいい知的な刺激をいただいて、お得な感じで帰った次第。

 

会場の主催者や演者の皆様に多謝。自分の学会にも還元したいなぁ。

 

というあたりでお休みなさい。