お休みですが、「地方」を考える…7 國分功一郎さん @lethal_notion 『来たるべき民主主義』を読んで

少し前に読んだ本ですが、12月のある学会で、地方や都市と文化運動についてのコメントをすることになったので、その整理も兼ねて…。

 

 ちなみに、月二回ほんと雑誌の合評をしている私のUST配信でも取り上げさせてもらったので、こちらもお目汚し(10分毎に分割されてますので、10分割してます)。

  さて、著者の國分功一郎さんは、若手の研究者にして、脱原発のデモについても言及されている新進気鋭の論客です。私も彼が手がけた翻訳の本で偶然勉強したこともあり、この方だったのか、と親近感がわきました。

 

この著作では、國分さんもかかわることになる小平市の森を貫通する都道に対して、その開発案について住民投票を求める方々の運動や、小平市当局のそれらの取り組みについての対応などが紹介されつつ、地域住民という立場からの民主主義が行政の立てた計画について現代ではどのようなところまで影響力があるのかということをふまえて、政治思想としての「民主主義の課題」という点が著者により検討されていきます。

 

  そして國分さんは、いわゆる体制として、議会における代表制というものの意義は認めつつも、社会運動としての民主主義の射程が、それにとどまる事に疑問を投げかけておられる。またこの本の中で、ガタリやドルゥーズが80年代以降のフランスで「制度論的」アプローチとして主張したとされる、ある種の政治主義(むしろ議会主義というべきか)に依存しない社会運動のスタイルも取り上げられていて、自分の研究にもかかわるので、その点わかりやすく説明され非常に勉強になりました。

 

 そしてもう一つは、基礎自治体レベル、あるいは小平市を貫通する都道の場合は都のレベルでの、行政における計画に対して、住民の意見をどのように反映させていると(あるいはどのように反映させたと見せいているか)という点に関して、ご自身の経験からも、理論的な探求からも、この点に問題提起をされています。

 

 こうした國分さんの語り口には説得力があり、さらにはご自身もかかわられた関心からか、基礎自治体レベルにおける住民投票の行政における扱われ方に関しての近年の動向なども調査されており、その点でも非常に勉強になりました。また巻末の小平市都道328号線を巡る二種類の参考資料も、ケーススタディー的な意味でも重要な資料を公表されているなと、つまりは理論的に地域社会の課題を追っ掛けている研究者(私めのようなものも末席にいる)だけでなく、実践的に関心のある層にも重要な一冊であるように感じました(まちのことに関心があったりまちづくり系で活動されている方であったり、市議会議員等で活躍されている方には読んでほしいですなぁ…)。

 

 

 それをふまえた上で、そのうえで、いくつか思いついたこと、コメント的なことをいくつか(まあ私ごときがいうこともないんですが…)。

 

 もちろんこの本良著ではあるし、民主主義を代表制における統治という「体制化された民主主義」以外の経路にも注目すべきであるというように理解しましたが、そうであるとすれば私も賛成です。しかしながら、ここがややこしいんですが、日本の「近代化」はやはりどう考えても独特な歴史をたどっており、その過程の中で「民主主義」自体もいろいろな意味で「回転」がかかってドライブしていると。例えば、小松和彦さんの仕事など見ると、昭和の初期ですら、何かの村の寄合の問題(火事や犯罪の解決)に対して、村八分というような解決手段で対応していたりその決定を神社の託宣の儀式で行ったり。そうした風習化された決定のコミュニティと「体制化された民主主義」である地方議員の後援会組織は、少なくとも私の住んでいる地域になればなるほど、何とも言えないクレオール化した存在になっているような気がしています。つまり、「体制化された民主主義」自体も非常にあやふやなものである。場合によっては、せめて「体制化された民主主義」ぐらいはもう少しきちんとしては(つまりは規範的に理解する余地もあるのではと)と思うようなこともある気がしています。これが一点。実はこれに関しては、社会学者の鶴見良行さんや鳥越 皓之さんなどがコモンズの社会学の検討ということで、環境社会学からのアプローチしてみたり、あるいは伝統的なこと言うと、似田貝先生や松原治郎先生の住民運動の社会運動研究などからのアプローチなども想起されます。その一方で國分さんも指摘している行政計画が実権を持つ側面、この進展が同時進行していったことをどう考えるのか…政治思想という意味での比較検討材料としての諸外国思想は重要であるとともに、国内研究の歴史をふまえていくこと、これは自分に対してもいえることですが、その重要性を感じた次第。

 

 二点目は、小平市型の住民投票の実施要求運動というのは、非常に重要であり、これまた自分としても注目しなければならない重要な動きであるし今後もそうしていこうともう意義深いものがあることは理解できたのですが、その一方で、都市型の市民運動という形式が大きいことと、さらに、その都道計画を立てた「実施」者であるところの「都」とは、日本でい唯一地方交付税(の補助金)を拒否しうる巨大行政区であり、この首都圏の巨大(しかしながら一地方という位置づけの)行政と、都市型の運動の広がり方から、私たちが住んでいる四国の様な地方の住民はどのような点を教訓として学びえるのか、という点です(尤もこれは國分さんにの課題というよりは私の課題なのですが)。

 

 三点目、これは感想と呼ぶべきものですが、國分さんも触れているフランスの「制度論」的アプローチにも関連する社会運動の盛り上がりや、トゥレーヌなどに注目された地域運動、あるいは反原発、イタリアでの70年代後半のアウトノミア運動など、時代的には消費社会に移行直後か直前のしかも冷戦期に、いわば核の対立という体制選択で大きな課題を抱えた時代、代表制というものの限界など民主主義が問い直された時代の思想と運動の成果でもあったように思うわけです。その思想が(少なくとも「思想が」としておきます)、「遅れてきた消費社会」のような現代の日本で、再評価される、この状況というものが何なのか、それ自体が私も課題として取り組まねばと、思った次第です。なかでも、例えば、男女の雇用形態の「不公正」、若年労働者と高齢労働者の、非正規と正規の雇用バランスが、ヨーロッパ諸国がオイルショック以降の10年政治の時代で乗り切ったその問題が、日本では近年どういうわけか盛り上がっている、この現象の時差を、思想的にはどう受け止めるか、そんなことも思った次第です。

 

 

 で、私としては、今のところ、様々な実践なども見させていただくと、「占有」とその「承認」ということで学会では報告しようかと思います。これは、例えば徳島県の神山等を見て思ったことですが、行政でもない過疎の町で、ある種のNPOが過疎の町を占有し、実践によりその意義を広め、町外、町内で承認されていく、そういった過程です。また私がずーっとかかわっていてまだ形にしていない(そろそろですw)、北海道浦河町のべてるの家もその枠組みで説明できるかもしれません。

 

 さあ、こっから本題なのですが…すみません。続きは後で…ちょっと外出しなければならなくなりました…