密林通信~共同のツールとして「政治」を信じることができるか?吉田徹( @yoshidatoru )さん『感情の政治学』読んでみた(書評です)

どなたかおっしゃてたんですが、「島本和彦さんの本を読むと、読後に本を閉じて行き場のない未消化のテンションで悶々とする」という話があるのですが、いい本、それも課題を共有しているような近接ではあるが異分野のいい本に巡り会うと、同じような気持ちになってしまいます。今日ご紹介する吉田徹さんの『感情の政治学』そういう一冊。


 本書では、日本の「政治不信」とされる状況を踏まえつつ、その現象が世界的な現象であり、一方でこれまでの政治学が、見落としてきた二つの点を確認していきます。
 まず、ある種の合理的な政治行為モデルから正義論や公共性などを論じていた限界を指摘し、実は合理的な行為者は、ある種の共同的な観点に立ち得ない、いわゆる「合理的な行為主体=公共的な主体と成り得ない」ということを裏付ける研究を敷衍しつつ、それでもなお、ひととの関わりを構想できる、合理性からこぼれ落ちつもするが、一方で「公共なこと」を問いうる私的領域を、アレントから受け取った課題として、再構成しようとする。
 またもう一つは、現代のポピリズム研究を踏まえた前著『ポピリズムを考える』の際にも目配りされていた、タルドを始め、ル・ボン、JSミルやフロイトやなどの「群衆」と「民主主義」に対する「近代的な」これまでの見方を、批判的に検証し、単なる「無知な暴徒(もしくは管理の対象)」としての群衆像から、現代の社会運動論へと接続されうる、合理的な制度設計では計りえないある種の実像を積極的に暴露する集団としての「群衆」像を、時代の必然の中から確認していく。

ということで続きは本編で↓
http://blog.livedoor.jp/apoly1998/archives/52012885.html