密林通信~速水健朗さん( @gotanda6 )『ケータイ小説的。“再ヤンキー化”時代の少女たち』を今さら読んでみた(書評です)

 久しぶりに書評日記です。どうも最近エントリーが出来ないなぁw。本は毎日読んでますがそのアップが遅れております…。

 

 さて言い訳はともかく…

  表題の本を読んだのは二つ理由がありました。

 一つは、現在思う所あって、「ヤンキー」とされる集団が、どのような文化スタイルをとっているのか、また存在するのか、また特に「反知性主義的」と時に評されたりもしているその集団には知性的な振る舞いの痕跡はないのか、その辺りが非常に気になっていろいろサーベイしております。既にもう古典といってもいいんでしょうが、佐藤郁哉さんの『暴走族のエスノグラフィー』という名著があり、画数の多い漢字を羅列した独特の特攻服で着飾り、わざと運転しにくいかのような改造をした車両で暴走したりというちょっとアレに見える行為は、実は彼らなりの知性の発現であり、ある種の「対抗文化」とでも言うべき知性的な共同体の現れでまさにその点を文化人類学的手法で明らかにしてくれていた訳です。まあそういったルーツを手がかりにしながら、それから30年どんな変化があったのか、確認しております。社会学的には社会的な「逸脱」とか「非行」とかの意味を考察するのは一つのジャンルになっているみたいですね。

 もう一つの理由は、さらに少し前に書評でご紹介した仲俣暁生さんの70年代以降、ダブル村上以降の「文学」的な状況から2002年までの作品自身が批評性を持つまでに進化した小説群に至る文芸誌を読んで、そのあとの文芸界の歴史にも興味があったんで、その辺りもこの本を読んだ理由です。

 

ということで例によって続きはこちら↓

http://blog.livedoor.jp/apoly1998/archives/51989805.html