映画評:#spec -結-見てみたよ…世界は終わるのかどうかわからないが、セカイは続く(ケイゾク)

世界は終わったのかどうかわからないが、セカイは続く…

 うーーん、あ堤監督は、これやりたかったのか…うーーん。

 

 思えば今から10年以上前なのか、「ケイゾク」のころ、ちょと世紀末的というか末世的というか、そういった中で「自分の感覚の正義感・倫理感」にしか立脚しえずひたすら快楽的な殺人者「アサクラ」を追いかける真山と、その真山を見守るというか知的な力で助けもし真山の感情を解きほぐそうとする柴田、そういったコンビの一話完結の物語が気がつくとかなり主人公の内面をえぐる話として進展し、初めの話も遡って見直して見る、そういった面白さから引き込まれたものでした。

 

 

 そしてそれから10年たち、「spec」というドラマで「ケイゾク」の余韻を期待してこれはこれでまた引き込まれたわけです…ただし、「spec」での被疑者たちは、宇野常寛さんがこの映画のパンフで評するごとく、「狡猾さ」というもので巧みに脚色された「偽物」の「力」で主人公や登場人物を幻惑していった「ケイゾク」とは違い、設定上、その「力」が本身のものとされている(でも「ケイゾク」でも何かの「ホンモノ」の「力」というか、「眼を眩ませること」がほのめかされていたかもしれないけど…)。

 

 で、今回の映画は、それで行くと、かなり「ホンモノの力」を描いちゃった感がある。しかも、その結論部分は、午前中鑑賞した高畑監督の「かぐや姫」にも通じるような…。

 

 

 ただ、この二作は、高畑監督が、あえて、時代遅れともとれる近代文学的「自我」像を描こうとしたものと読めるのに対して、しいて言えば、「セカイ」系の表現をきわめてデフォルメしたもののように感じた。そう、感じただけなんだけど、その印象が強いです。で、好きか嫌いかでいうと、これまた「わからない…」。高畑監督の方はまだ「左翼系」もしくは「社会思想系」と「近代文学的自我表現」というなんとなしの枠組みで理解できるんだけど、「spec―結―」は正直みんなどう思ったんだろう。

 

 

 まあそれはともかく、栗山千明、最高です!ということは間違いないので言っておきます。

 

「トゥーマ!」とか「たのもー」とか「この石オカマ!!」とか…

 

 

というわけでそろそろ眠ります。久々に梯子しました。