映画評:『凶悪』( @meicho24 )見てきました(多少ネタバレ)ー一カ月ぶりに更新w

 いやーなんか10月はいってバタバタしまして、ご無沙汰しております。久々の日記です。

そして、そのネタが映画『凶悪』ということでして…すでに都市部では9月に公開されておりましたが、私の地元では単館系で11月初めに上映です。

 

http://www.kyouaku.com/ 映画『凶悪』公式サイト</a>

 

 

 内容は皆様、ご存知かと思いますが、須藤という死刑判決を受けた連続殺人犯が、とある新聞記者に事件化されていない余罪3件を告白したところから始まります。曰く、この三件では主犯格の男がおり自分はだまされ信頼していた舎弟まで誤って手にかけてしまったと。その男、木村は、「センセイ」と呼ばれていると。

 

(ここから多少ネタバレ)

 

 この作品では事実をもとにしたフィクションではあるのですが、登場人物の持つ凶悪さというか凶暴さが、それぞれ個性化されており、そのプロットがこれまた何か現代的なところがあって作品に独特の雰囲気を与えています。

 告発をした須藤は自身の裏切りに対する「怒りの道具」として殺人や生きたまま灯油をかけて火をかけるなどという「技術的な凶暴さ」を、そして須藤の舎弟五十嵐は信頼する須藤のいうことならなんでも共謀するという「共同の凶暴さ」を、そして、主犯格の木村は、核家族化の中で放置されていく者を金というモノに変えるその執拗な変質的な執着からくる「凶暴さ」を。

 そして主人公記者の藤井は、これらの事件の取材を通じて、これらの凶暴さから垣間見えてくる「(真の)人間の凶暴さ」に引き付けられていき、暴き立てていきたいということに執着し自らの家庭も崩壊寸前という「正義感の凶暴さ」に取りつかれていきます。

 

 

 私も、ここまでの犯罪ではないにしても、様々な事実や人のやり取りを調査する仕事を見てきたものとして、「正義感の凶暴さ」ということの恐ろしさを多少ではありますが実感しているものではあります。関連して、ジャーナリストの津田大介さんが今年の11月12日に興味深いツイートをあげていて、ふと目にとまりました。「コンテンツをつくるというのは、コンテクストを追うことができるか――そのことにどれだけ執着できるのか、という当たり前の事実を認識。でもそれって鍛えられるものなのかな、と思うと絶望的な気持ちになる。」

 

 津田さんのいうように、コンテキスト(文脈)を探り出す、そういう仕事をしているもの独特の落とし穴というもの、それを感じたことのある方には、興味深い作品ですが、また違った面で受け止めることがあるような気がします。

 

 

 しかし、しかし、作品を通して伝えている「凶暴さ」にはほかにもあります。結局被害者の家族が、自身の核家族的な基盤、すでに手に入れた社会環境を守るために、被害者老人を葬り去るという「現代家族の凶暴さ」がそれでしょうか。いつだったのか、数年前、現代の依存症であるとか、家族環境の病とされるものにかかわる社会問題は、ある種の時代性がありその文脈があると感じたことがあります。家族という入れ物と依存症という病、その突破口を認識するためにもいつか本腰を入れて取り組まなければ、そう思ったことを作品の後思いだした次第。

 更には、一部映画で話題になっている「陳腐化された残虐さ」がほんと生活の一コマに同居している、その恐ろしさも描いていますよね。パンフレットによれば事件としては90年代から2005年ごろまでとのこと。本当に残虐な行為が、何かの独裁国家ではなく、ひっそりと市民生活の日常と同居している怖さを感じました。

 

 ただ、ここまで書いておいて、ちょっと思ったのは、私もそうですが、真実を追い求めていき、「正義感の凶暴さ」の陥穽に落ち込む者って、結局自分の身近な家族観や人間関係の在り方など、内省的になってかえって自虐的になってもよさそうなことが起こるのですが、今回の作品では監督さんがパンフレットでもふれているように、「エンターテイメント」と定義づけているようにそのあたりはあえてカラーを変えたんでしょうね。

 

 それにしても自殺をよそおって殺された被害者が警察により事件性がないと認定されたり、いくつか伏線がありそうでなんでと思うこともあるので、そのあたり、気になります。原作読んでみたりして。

 

 

さてそろそろ出勤しまーす。

11月末からまた見たい映画沢山ありますが見れるかしら…

ではでは。